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・・・ 目次 ・・・
 
♯0011
織田信長の珍陀酒
♯0010
ウォルト・ディズニー
  のホットドッグ
♯0009
バカボンのパパはレバニラ 炒めが大好物なのだ!
♯0008
ジャン・コクトーの角砂糖
♯0007
白洲次郎の
  スコッチウイスキー
♯0006
チンギス・ハーンの
  タルタルステーキ
♯0005
鴎外のまんじゅう茶漬け
♯0004
ポパイのホウレンソウ
♯0003
バルザックの生牡蠣
♯0002
魯山人の生卵かけご飯
♯0001
龍馬の軍鶏鍋
予告編
 
英雄好食  
 
彼の人の大好物は、何だったのか。なにゆえ、それを好んだのか。
その“”が、示唆するものは──。
歴史に名を刻む人物の“好”に注目!
そこには、すでに“思想”や“哲学”があった。
興味津々の好列伝。
 
ウォルト・ディズニーのホットドッグ
──真っ赤なポルトワインを神の血に見立てて
文/戸矢 学
■信長とは何者か
 信長ほどに毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人物は、ちょっと見当たらない。きわめつきはなんと言っても本能寺の変で、側近中の側近である光秀に弑逆(しいぎゃく)された所以について、あるいは信長の死に様について、一代の英雄らしい最期と讃えられたり、あるいは裏切られて当然の末路などと謗られたり様々である。
 かく言う私も、今般上梓した長編小説『天眼─光秀風水綺譚』で、弑逆の真相について独自の考察を開陳した。
Jean Cocteau  尊皇心に篤い光秀が命賭けの行動をおこすには、なによりも「大義」があってしかるべきだろうというのが、私の発想の発端であった。なにしろ、それまでの光秀の行動の軌跡を辿っても、彼が私情を優先した形跡は見当たらない。
  であるならば、本能寺へ向かったことにも当然大義があるはずで、主君を討つほどの大義となれば、様々な状況などから考えて「尊皇」以外にありえないと結論した。とくに私は、ここに至る光秀の思考経路や、ある一族の血脈について着目した。
  飛鳥時代から日本の中枢において重きをなしてきた一族、常に天皇の親近にあって国体社禝の形成に尽力した一族──東漢(やまとのあや)氏──、一般にはあまり馴染みのない氏族名かもしれないが、それこそが光秀の血脈ではないかという仮説に基づいている。
 はたして読者にどこまで理解していただけるか期待と不安が交錯しているが、日本史上の重大事件の代表ともいえる本能寺の変の真相は、この論理の上に立って初めて解き明かせると私は考えた。
 私情や私怨等々が原動力になるよりも、大儀をもって立つほうが力を得ることは理の当然だが、光秀が不利を承知で、しかも事前の根回しもほとんどせずに(はっきり言って無謀な)挙兵をおこなうことには、それだけの理由がなければならない。だからといって、それを理屈付けるために「私怨による感情の暴発」などを持ち出すのは、あまりのご都合主義と言わざるを得ないだろう。刹那の感情の暴発が歴史を創る、あるいは変えるというならば、それはあまりに人間を侮(あなど)ったものというべきで、自分自身を貶(おとし)めることになるのだと知らなければならない。安易な帰結はB級漫画に任せておけばよい(たとえば『コミック・ガンボ』に現在連載中の「覇道遥かなり 信長」は唖然とするばかりのご都合主義で、とりわけ安宅の関の弁慶のエピソードを、光秀に演じさせたのはすさまじい。さすがに呆れて、私は以後読むのはやめにしたが、この漫画で戦国史に関心を持つ読者がいたなら、この作者の罪は重いだろう)。
■信長が好んだという紅い洋酒の正体
 さて、織田信長が赤ワインを飲んでいたという話はわりと流布したエピソードで、珍しいもの好きの信長を象徴する逸話としてしばしば紹介されている。実際にそういうものを嗜んだという記録はあって、持ち込んだのは言うまでもなくイエズス会の宣教師たちである。この異国の珍品を権力者への貢ぎ物の一つとして献上したものだ。
 「信長は下戸であった」という説もあって、だからこそ意図的に「血のように紅い酒」が小道具として役に立ったのかもしれない。私も前掲著書において、信長が重臣たちに「紅い南蛮酒」をふるまうシーンを登場させた。場所は安土城天守閣(天主閣)。──ただしこのシーンは私のフィクションであるが、主要人物の性格付けや力関係を象徴的に表現するにはちょっと便利な小道具であった。ちなみに用いた酒杯は、たぶん豪奢なベネチアン・グラスのゴブレットだろう。これも宣教師の献上か、あるいは堺の商人たちが持ち込んだものであったかもしれない。
■不思議な不思議な「赤玉ポートワイン」  
 
  しかし信長が飲んでいたワインとは、ポルトワインのことであって、現在の私たちの常識からするとワインではないかもしれない。
  ポルトワイン、またはポートワインとは、ワインの代名詞たるフレンチワインや、近頃人気のオーストラリアワイン、チリワイン等々とは基本的に異なる種類の酒なのだが、一般にはあまり知られていない。サントリーが「赤玉ポートワイン」 という不思議なアルコール飲料を発売したことから、日本人はこれについて考えるのをやめてしまったのだ。それが1907年のことで、なんと今年がちょうど発売100年に当たる! これが日本人と市販“ワイン”との出会いであって、この第一印象は強烈で、以後近年のワイン・ブームがやってくるまで日本人はこういうものがワインだと思い込んでいたのだ。私が初めてアルコール飲料を口にしたのも実は赤玉ポートワインで、1970年に高校の修学旅行で大阪万博へ行った帰りの新幹線の車中であった。友人たちといたずら半分に一口づつ飲んで、ほろ酔いになったのを今もなお鮮烈に憶えている(未成年なのに、いけませんね!)。
 赤玉ポートワインは、ワイン一般の理解を遅らせる結果になったが、とりもなおさずポートワイン(ポルトワイン)そのものへの誤解をも定着させたのだ。
  ちなみにその名称は商標上の問題があったようで、近年になって名称変更されて、現在は「赤玉スイートワイン」になっている。
■謎の珍陀酒
Jean Cocteau   ところで信長が飲んでいたポルトワインは、実際には「珍陀酒」という名で呼ばれていたようだ。これは「チンタ」酒と読む。
 ポルト酒は、ポルトガルの港から搬出されるところから別名ポートワインとも呼ばれているが、いずれも通称で、それぞれに正しいブランド名が存在する。
  たとえばフランス産のワインにシャトー・ムートン・ロートシルトやシャトー・マルゴー、シャトー・ベトリュスなどのブランドがあるように、ポルトガル産のものにも当然そういった固有のブランド名が存在する。
  フレンチ・ワインの商品名に冠せられている「シャトーChateau」というのは、ご存知のように「城」のことで、すなわち葡萄園の名称をブランド名として冠している。 これと同様に、ポルトガル産は「キンタQuinta」すなわち「農場」を冠する。この「キンタ」が珍陀酒という名の由来である。
「キンタ」は、フレンチ・ワインでいえば「シャトー」に相当するのである。──「赤」を意味する「ティントTinto」に由来するという説が広まっているが、私はこの自説を提唱する。(読者のみなさん、どちらが説得力ありますか?)
  ところで珍陀酒すなわちポルトワインは、いわゆるワインとは趣の異なる酒である。通常のワインが葡萄から醸造したものであることは常識であるだろう。酒には醸造酒と蒸留酒とがあって、葡萄から醸造するとワインになり、蒸留するとコニャック(ブランデー)になる。米から醸造すると日本酒になり、蒸留すると焼酎になる。あるいは、麦から醸造するとビールになり、蒸留するとウイスキーになる。おおざっぱな言い方だが、このように同一の材料から、醸造するか蒸留するかで、まったく異なる酒に変貌するのだ。
  ところがポルトワインというのはさらに異色の酒で、発酵途中のワインにブランデーを加えて発酵を止めたものである。  
 ワインもブランデーも原料は同じ葡萄であるとはいうものの、ワインは醸造酒であるのに対して、ブランデーは蒸留酒である。これが混合されているという不思議な酒だ。 信長が飲んだポルトワインは、イタリア人の司祭がグラスとともに献上したと思われる。「聖杯」で、神の血になぞらえる「ワイン」を酌み交わす。血になぞらえるのは、古来のもので、信長は当然知っていただろう。腐敗しにくいポルトワインを聖なる儀式に用いるために舶載したものである。この儀式のスタイルは、茶の湯のスタイルの原型になったのではないかとする説もある。──このようにイエズス会の戦略は多岐にわたっていたが、結果的に日本はアジアで唯一の失敗例となる。
  それでも身近にバテレンを召して、好奇心のおもむくままに話を聞いていたことから、当時の日本人で最も「情報通」であったのは信長かもしれない。
  ちなみに、その前後の献上品には、他に地球儀や世界地図、時計などがあったようで、これらは信長の世界観に多大な影響をもたらしたと思われる。
■神になろうとした男
  しかし信長は、こういった最新の知識や情報を得ながら、意想外の行動に突き進む。その様子は、宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』に詳しい。
  本能寺の変の年、その直前の五月十八日を信長は「天主節」と定めた。驚くなかれ、信長自らが名付けた信長その人の生誕祝祭日である。「天主」とは、当時イエズス会の最高神「デウス」の意で用いられていたのだが、ここにおいて信長のことを意味するものとなった。そして、これより向こう七日間を祝祭期間とも定めた。  
  天主・信長を祀るために建立された総見寺には以下の文言が掲出されたという。

「当寺を拝し、これに大いなる信心と尊敬を寄せる者に授けられる功徳と利益は以下のようである。  
  第一に、富者にして当所に礼拝に来るならば、いよいよその富を増し、貧しき者、身分低き者、賤しき者が当所に礼拝に来るならば、当寺院に詣でた功徳によって、同じく富裕の身となるであろう。しこうして子孫を増すための子女なり相続者を有せぬ者は、ただちに子孫と長寿に恵まれ、大いなる平和と繁栄を得るであろう。  
  第二に、八十歳まで長生きし、疾病はたちまち癒え、その希望はかなえられ、健康と平安を得るであろう。  
  第三に、予が誕生日を聖日とし、当寺へ参詣することを命ずる。  
  第四に、以上のすべてを信ずる者には、確実に疑いなく、約束されたことがかならず実現するであろう。しこうしてこれらのことを信ぜぬ邪悪の徒は、現世においても来世においても滅亡するに至るであろう。ゆえに万人は、大いなる崇拝と尊敬をつねづねこれに捧げることが必要である」(ルイス・フロイス『日本史』松田毅一他訳)
  そして信長は、総見寺の「一番高所、すべての仏の上に(前掲同書)」一個の石を安置し、それを信長の神体として、諸国のすべての人々に「礼拝しに来るように命じた(前掲同書)」のだ。
  その後、安土総見寺への参拝が列を成し引きも切らず続くことになる。信長は参拝者の正面に立ち、祝いの金銀を手ずから受け取り背後へ投げたという。その異様な光景は語りぐさとなった。──この辺りの詳細については、拙著『天眼──光秀風水綺譚』でお楽しみあれ。
 
(第11回了)
 
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織田 信長(おだ のぶなが)
 天文3年5月12日(1534年6月23日) - 天正10年6月2日(1582年6月21日)


戦国時代から安土 桃山時代の武将・大名。
周辺の敵対勢力、今川氏や斎藤氏を破り、足利義昭を奉じて上洛を果たし、義昭を将軍位につけるが、そ の義昭と敵対し武田氏、朝倉氏、延暦寺、石山本願寺などから成る信長包囲網が結成される。しかし、信 長はこれを破り、以後は天下布武を推し進め、楽市楽座、検地などの政策を採用する(織田政権)。 既存の権威や勢力(朝廷・仏教など)の否定、家柄門地によらない人材登用、新兵器であった火縄銃の活 用などを通して戦国時代を終結へと導いていったが、延暦寺焼き討ちなどの苛烈な政策から魔王(第六天 魔王)とも恐れられた。最後は家臣の明智光秀の謀反(本能寺の変)により自害した。


「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」という歌がその性格を表していると言われているが、これは本 人が作ったものではなく松浦静山が作ったものである。またこの歌の続きは、この後「鳥屋にやれよ・・・」 とあり、戦国時代の武将達と比較すると江戸の将軍はあまりに気骨がないと批判するもので、彼の性格と いうよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。 南蛮品を好み、正親町天皇を招き開催した『馬揃え』にビロードのマント、西洋帽子を着用し参加した。 晩年は戦場に赴くときも、南蛮鎧を身に付けていたと言われている。ヴァリニャーノの使用人であった黒 人に興味を示し、譲り受け彌介(やすけ)と名付け側近にしている。


イエズス会の献上した地球儀、時計、地図などをよく理解したと言われる(当時はこの世界が丸い物体で あることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解出来なかったが、信長は 「理にかなっている」と言い理解した)。好奇心が強く、鉄砲が一般的でない頃から火縄銃を用いていた。 奇抜な性格で知られるが、ルイス・フロイスには普通に見えたようだ。ローマ教皇グレゴリウス13世に安 土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の1585年であったとされる。この屏風絵は紛 失し行方が判らなくなっている。


浅井父子と朝倉義景の三人の頭蓋骨に金箔を塗り、酒宴の際に披露した。これは後世、杯代わりにして家 臣に飲ませたという話になっているが、これは小説家の潤色であり、実際には使用していない。髑髏を薄 濃にするというのは、死者への敬意を表すものであり、現在の常識でもって信長の非道を唱えるのは正し くない。 囲碁、幸若舞を好んだ。幸若舞『敦盛』の一節'「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり ひ 6 とたび生を享け 滅せぬもののあるべきか」という部分は、信長の人生観と合致していたのか、特に信長の お気に入りで、よく舞ったと言われている。


ルイス・フロイスは信長の人物像を「長身、痩躯で髭は少ない。声はかん高く、常に武技を好み、粗野で ある。正義や慈悲の行いを好み、傲慢で名誉を尊ぶ。決断力に富み、戦術に巧みであるが規律を守らず、 部下の進言に従うことは殆どない。人々からは異常なほどの畏敬を受けている。酒は飲まない。自分をへ りくだることは殆ど無く、自分以外の大名の殆どを軽蔑しており、まるで自分の部下のごとく語る。よき 理解力、明晰な判断力に優れ、神仏など偶像を軽視し、占いは一切信じない。名義上法華宗ということに なっているが、宇宙の造主、霊魂の不滅、死後の世界などありはしないと明言している。その事業は完全 かつ巧妙を極めている。人と語るときには遠まわしな言い方を嫌う」と評している。身長は約170cm程度 で、500m向こうから声が聞こえたと言う位に、相当に甲高い声であったと言う。また血痕や遺髪から血 液型を鑑定し、A型である事が判明した。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア』
 
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