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  食の世界に憧れ、その世界に飛び込んで孤軍奮闘、そして夢の実現へ。
様々な人生の軌跡から学ぶ、後輩への温かなメッセージ。
 
 
 
   
 

 

レストランブノワ シェフ

http://www.benoit-tokyo.com/

小島 景氏

 
 
 
 

切り込みを入れず、骨を抜いた鶏の中に、フォアグラ、鶏肉、豚の背脂、塩漬けの豚バラ肉、トリュフを詰めてローストされた、冷静のオードヴル「鶏とフォアグラのドディーヌ」。
オリーブオイルとバルサミコヴィネガー、シェリーヴィネガーに鶏のジュを加えたソースとともに。
テリーヌの食感を十分に味わってもらうために、厚めに切り分けられている。
付け合せは、鶏のブイヨンで火を入れた野菜の盛り合わせ。野菜は、原形を残したカッティングになっている。

『野菜の自然な、本来の形を残し(尊重)つつ、わずかなカッティングに美意識を込める。それが、私たち人間のできる部分。美しくしようとする気持ちや感覚が大事ですね』。そう語る、小島シェフの軌跡を追ってみた。

 

鶏とフォアグラのドディーヌ ジュレ添え

Dodine de volaille et foie gras, delicate gelee

 
 

■美味しかった“うどん”砂糖+塩=0??
1964年1月、東京に生まれ、小さいときに千葉県に引越。小学校2年生の時には、神奈川県鎌倉市に引越し、高校まで暮らした。自然豊かな環境、友人と山に登り、栗拾いや焚き火を楽しんだ。
父親は、大学で教鞭を取っていた。専業主婦の母親は関西出身で、料理の味も関西風であった。小学生のころ、母親が風邪をこじらせて数日間寝込んだことがあった。その時、近所のおばさんが、料理を作りにきてくれた。おばさんが作ってくれたうどんは、いつもと味が違った。味の濃いおばさんのうどんを美味しく感じた小島さんは、おばさんが、料理の最後に何かを入れているのを発見した。何を入れたのか聞いてみると、それは砂糖だった。『砂糖を入れると料理がおいしくなるのか』と思った小島さんは、次に母親がうどんを作ってくれたときに砂糖を入れてみた。『たくさん入れるともっと美味しくなる』と思った。うどんは、甘くて食べられなかった。『塩を入れるともとにもどるのでは』と思った小島さんは、次に塩をたくさん入れてみたが、うどんは食べられなかった。
そんな思い出を通し『もともと私は、インパクトのある味覚を好んでいたんだと思います。なので、フランス料理を仕事にできたのでしょう』と振り返る。

 
 
 

■ここで働きたい!フランク・セルッティ氏との出会い。
高校時代、周りの友達と同じように、大学進学を目差していた。夏休みには、東京のゼミに通っていた。しかし、勉強の先にある何かを見出せなかった。そんな時、ある雑誌に掲載されたヨーロッパから帰ってきた料理人の記事を目にした。『料理をやれば、こうやって、お店をもてるのか』そんな漠然とした思いから料理を志すようになる。

高校卒業後、東京、赤坂にある鉄板料理のお店から料理人生をスタートさせた。都会の生活が好きになれなかった小島さんは、その後、鎌倉にあるイタリアンレストランで働くようになる。4年後、知人の紹介で、フランス・リヨンにあるレストランを紹介された。24歳で得た渡仏のチャンスであった。フランスでは、いくつかのレストランで働いた。もともと、イタリアンレストランで修業をした小島さんの興味は、“南”に向いていた。
ある日、南仏、ニースにあるレストラン「ドン・カミーヨ」で食事をした小島さんは、出された料理全てに感動と衝撃を受けた。『こういう仕事はぜひ、覚えたい』『ここしかない』そう思った。「ドン・カミーヨ」のシェフは、フランク・セルッティ氏、24歳の若さで、イタリア、フィレンツェの「エノテカ・ピンキオーリ」のシェフを務め、その後、アラン・デュカス氏がモナコに「ルイ・キャーンズ」をオープンするにあたり、イタリアから呼び戻された料理人であった。「ドン・カミーヨ」は、その後、セルッティ氏がオープンしたレストランであった。
『ぜひ、ここで働きたい』と懇願するが、叶わない。諦めきれない小島さんは、その後も自分の住所を渡す、手紙を出す、電話する、また食べに行くと、アタックを続けた。一番のネックは、労働許可証であったが、当時働いていたレストランが許可証を申請してくれ、その後、「ドン・カミーヨ」で働くことが叶ったのである。小島さんは、セルッティ氏のもと、5年間働いたあと帰国した。

 
   
 
 

■更なる高みへ。最高峰レストランの“秒単位”の仕事。
3年間日本で仕事をしたが『もう一度、フランスに行ってみたい』と思い、再度渡仏することになる。その頃、小島さんの師匠、セルッティ氏は、「ルイ・キャーンズ」のシェフを務めていて、「ルイ・キャーンズ」で働くこととなった。
再渡仏する小島さんには、料理技術的にもある程度の自信と自負があった。しかし2度目の渡仏は、「ルイ・キャーンズ」が世界のトップクラスのレストランである所以を思い知らされるとともに、小島さんを更なる高みへ押し上げる機会となったのである。
以前、セルッティ氏のもと「ドン・カミーヨ」で働いていた時は、料理人はシェフを含めて4人。しかし「ルイ・キャーンズ」には、約20人の若い料理人が働いていた。ほとんどが2つ星、3つ星レストランで働いてきた実力者なのである。そして、その全員が、4つしかない、部門シェフを獲得するために“しのぎを削る”ように働いていた。
料理を出すタイミングにしても、それまで経験したことがない“正確性”が求められた。
『ルイ・キャーンズの仕事は“秒単位”なんです。たとえば、8時58分に料理を出すという指示が出れば、盛り付けに2分。だから8時56分に、肉、野菜の付け合せなど、すべてのポジションがその時間に合わせて仕上げる。野菜の火入れに6分かかるなら、野菜は8時50分から茹ではじめるんです』。『遅れはゆるされません。(決められた時間に)全てがそろわないと、シェフが怒り出す。茹でた野菜を一目見て、何分間茹でたかはすぐに見通されます』。『たとえば、ひとつのテーブルに5人のお客様で、仔羊・仔牛・魚・鴨・オマール、鴨は、テーブルで切り分け、他は皿盛り・・・』。一つのテーブルの料理が出されると、分刻みに次々と料理が出されていく。どんなに忙しく、複雑でも、シェフによって完璧に統制された調理場で、小島さんは最初、何もできなかったという。
その後、小島さんは、セルッティ氏のもと、スーシェフ(副料理長)を務めるようになったのである。

 
   
 

■ スタッフ一人ひとりの成長がレストランの成熟に。
帰国後、ADF辻を経て、レストラン・ブノワのシェフとなった。2008年12月、ブノワ再オープンのレセプションでは、アラン・デュカス氏出席のもと、自らマイクを取り、参加者に丁寧に料理の説明をする小島シェフの姿が印象的であった。

取材の終わり、「シェフの信念は何ですか?」との質問に返ってきた言葉は『忍耐』であった。『人は、生きている間は、忍耐の連続だと思います』『ルイ・キャーンズでの仕事、課題をクリアしたからといって、課題が無くなるわけではない。次のところに行けば、そこには、新たな課題があります』『また、今の課題を乗り越えることが、次の道へと繋がっていくと思います。一つの課題をクリアすれば、それは、その人の自信になりますよね』。また『スタッフ一人ひとりが成長して、このレストランを成熟させていくというのが私たちの仕事だと思っています』と抱負を語ってくれた。

小島さんの2度目の渡仏は、奥様と一緒であった。渡仏の数ヶ月前に知り合い、結婚したのだ。奥様は、もともとフランスに興味があったわけではなく、慣れない外国生活には苦労がともなった。5年間のフランス生活で小島さんを支えてくれた。
現在1歳のお子さんとともに、2009年1月6日で結婚8周年を迎えるという。小島シェフは、そんな奥様に感謝の言葉を添えていた。

   
 

(第8回了)
取材・文/馬場雅教

   
 

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